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2026.02.17

日本アパレル産業の変遷と、生産拠点の移動

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1. 「世界の工場」前夜。日本の既製服産業の隆盛(1970年代〜)

戦後、日本のアパレル産業は急激な拡大を遂げました。 その象徴の一つであった岐阜駅北側の問屋街は、「既製服(レディ・トゥ・ウェア)」の巨大な集積地として機能し、製造・卸売が密集する商業圏を形成していました。

当時、日本国内で流通する服の多くが、こうした国内の産地で生産され、活発な商業活動が行われていました。 それは「経世済民(世を治め民を救う)」という思想よりも、作れば売れるという熱狂の中での、純粋な商いとしての隆盛でした。

2. 国内での拠点の分散と、地方への拡大(1970年代後半〜1980年代前半)

高度経済成長に伴う物量の増加に対し、都市部近郊だけでは生産キャパシティが追いつかなくなりました。 そこで日本のアパレル企業は、より**「生産効率」の高い環境を求め、拠点を国内の地方部(東北、九州、四国など)**や、山間部へと拡大させました。

「都市で企画し、地方で縫う」。 海を渡る前に、すでに国内において**「効率を最優先にした拠点の移動」**は始まっていました。これは後の海外移転への予行演習とも言える動きでした。

3. 転換点となった「プラザ合意」と商業環境の変化(1985年)

1985年の「プラザ合意」による急激な「円高」が、この流れを決定的に変えました。 輸出の採算悪化により国産品の価格競争力が低下する一方で、海外での生産コストが相対的に下がり、調達メリットが発生しました。

この為替変動により、国内工場での生産は「非効率」と見なされるようになり、企業はより合理的な商業的最適解を模索し始めました。

4. 中国進出と「合弁会社」の設立(1990年代〜)

1990年代に入ると、生産拠点は雪崩を打って中国へと移転しました。 初期の進出形態の多くは、現地の企業と共同で出資する**「合弁会社」**でした。 日本のアパレル企業も、資金と技術(ミシンやノウハウ)を持ち込み、現地に工場を設立。「日本の仕様」を現地に移植し、圧倒的な労働力とコストメリットを享受する体制が築かれました。

これは単なる発注ではなく、**「生産機能そのものの輸出」でした。 その結果、国内(地方の協力工場を含む)への発注は激減し、技術の継承よりも「数字上の合理性」**が優先された結果、産業の空洞化が加速しました。

5. さらなる「効率」を求めたASEANへの南下(2000年代後半〜)

やがて中国の経済発展に伴い人件費が上昇すると、アパレル産業は次なる**「効率のフロンティア」**を求めて移動を開始しました。 生産拠点は中国から、ベトナム、カンボジア、インドネシア、フィリピン、バングラデシュといったASEAN・南アジア諸国へと拡大。

かつて国内の地方から中国へ移ったように、**「コストに見合う場所」を探して、産地は次々と移動を繰り返していきました。 また、現在の中国との関わり方は、かつてのような合弁・自社工場といった形態から、現地の成熟した工場へ発注を行うドライな「生産委託」**が主流となっています。

6. 日本のアパレル産業の現在地

経済産業省の統計によると、日本国内のアパレル供給における国産比率(数量ベース)は以下のように推移しています。

  • 1990年: 約50.1%

  • 2020年代: 1.5%未満

かつて市場の半数を占めていた「日本製」は、現在ではわずか1.4%程度にまで縮小しています。 かつて世界に誇った日本の繊維産業は、この飽くなき効率化の波に飲み込まれ、その規模と形を大きく変えることとなりました。