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2026.02.15

繊維の街、岐阜。その「熱量」の変遷と、静かなる継承。

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1. はじめに

JR岐阜駅の北側に広がる、問屋町。 かつて日本中の服がここに集まり、ここから全国へと旅立っていきました。 なぜ、岐阜がアパレルの集積地となったのか。それは偶然ではなく、歴史的な必然と、この地の人々の「商売への執念」が生んだ結果でした。

2. 地の利と、戦後の「熱」

岐阜のアパレル産業の爆発的な成長は、戦後の混乱期に端を発します。 古くから繊維産業が盛んだった尾州(愛知)などの産地に近いという「地の利」。そして、戦後の物資不足の中で「服を作れば売れる」という時代背景。 これらが重なり、岐阜駅前には衣料品を扱う店が次々と立ち並びました。

「ガチャ万」と呼ばれた好景気。 ミシンの音は昼夜を問わず響き、問屋街は仕入れのトラックとバイヤーの熱気で溢れかえりました。 それは単なるブームではなく、日本人が洋服を日常的に着るようになるための、巨大なエネルギーの供給源がここ(岐阜)にあったという歴史的事実です。

3. 「量」から「質」への転換

時代は進み、昭和から平成へ。 大量生産・大量消費の波が落ち着くとともに、岐阜の役割も変化しました。 海外生産へのシフトが進む中、この地に残ったのは「ただ作るだけの工場」ではありませんでした。

平成から令和になり残ったのは、複雑なデザインを形にする技術と、厳しい品質基準をクリアできる現場力を持つ工場たちです。 かつての喧騒は落ち着きましたが、その分、技術はより深く、静かに洗練されていきました。 「数」を追う時代から、「質」を極める時代へ。岐阜の縫製業は、その荒波の中で淘汰と進化を繰り返してきたのです。

4. 現代、そして未来へ

現在、岐阜は多くのデザイナーズブランドを支える、静かなる「製造拠点」として機能しています。 派手な看板は必要ありません。 確かな技術があれば、世界中からオファーが届く時代だからです。